「嫌われる勇気」について

「嫌われる勇気」を読みました。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 内容は難しかったですね。容易に要約出来ません、強いていうなら、「自分らしく生きていくには、人から嫌われるコストがかかる。また、「人はこの瞬間から変われて、幸せになることができる」ですかね。幼稚ですいません。

興味がある方は読んでみてください。

私は小学校5、6年生の時から、人間観察をするのが好きでした。今も「淡々としてるね」と言われるんですが、その時から、淡々としていたと思います。淡々と観察するんです。(笑)

人を観察していて思ったこと、「人は身勝手で、ほんとに自分の事しか考えていなくて、私が私が、とか、すべて自分のペースにもちこもうとするんだな~」って思いました。私も気をつけなければいけません。

このような概念は「嫌われる勇気」にもあったのですが、「今まで私がやってきたのは間違っていなかったんだな」、と思いました。おこがましいですね。

 

ヘンリー・アダムズ

この間「モリー先生との火曜日」という本を読んでいたら、ヘンリー・アダムズのこの言葉に出会いました。

「教師は未来永劫にまで力を及ぼす。影響がどこで止まるか、自分でもわからない」

素晴らしいと思いました。私は子供が二人いるんですが、子供にとっての初めての教師は親だと思います。「未来永劫にまで力を及ぼす。」責任重大ですね。私は良い人間になりたいと思い、努力してきたつもりです。主に本を読んだり、先輩ママさんに話を聞いたり。あと、宗教を親がやっていたいたので、その概念にも影響されています。(盲信はしてませんが。)「無知は罪なり」この言葉も好きです。

 

 

モリー先生との火曜日

モリー先生との火曜日

 

 「オリジナリティーは、情報の真空地帯には発生しない」正確な言葉じゃなかったらすいません。(上野千鶴子さん、東京大学名誉教授のお言葉)つまり、自分らしさというものは何もないところからは生まれない、と私は解釈しています。

自分らしさ、例えば子育ての仕方も情報がまったくないと、分からないと思います。

周りを見ていると、色々な物事に心を動かして、悪く言えば右往左往しているんだな~って思います。

こんな事を書いていますが、まだまだ修行が足りません。

 

 

 

家父長制と我が家

家長権とは、「家族と家族員に対する統率権が男性たる家父長に集中している家族の形態」と言うらしい。私は一時期社会学の本を読んでいて、この概念を知っていたのですが、いまいちピンとこなかったんです。こういう事ってありますよね?「情けは人のためならず」という言葉も、優しくすればするほど相手が図に乗って手がつけられなくなっった、という経験から、私は「優しさも間違えば相手のためにならないんだな」と悟り(?)ました。(ちょっと違ってたらすいません)。さて、我が家ですが、ある時、「主人は専業主婦である私を軽視している」という事に気がつきました。いつから軽視していたのか知りませんが(にぶいので)そのきっかけは、息子、娘も軽視し始めたからからです。さすがに3人からされれば嫌でも気がつきます。その時にパズルのピースがはまったように感じました。「あ、主人が軽視しているから、それにならって子供達もやっているんだな」ということに。まさに統率権の家父長に集中している!私も黙っていません。これはコツがいるんですが、結婚して15年、主人を観察し続けていたので、痛いところを少しずーつ否定していきます。そうすると「何か悪いことしたかな?」と思ったみたいですね。(わかりやすい人)言葉でもアプローチしていきます。「あなたは私をバカにしている」とか。ここは激情してはいけません。まあ、色々ありましたけど、最近は軽視することはあまり無くなりましたね。まったく無くならないのが腹立たしい。ちなみに「家父長制は息子が母親を侮蔑するように育てるシステムだ」というようなことを、上野千鶴子さん(社会学者、東京大学名誉教授)がおっしゃっていました。娘はいずれ私のような立場になればこの思いを味わいます。ウヒヒ。